「仕方がないよ」という父の一言が全てを物語っているようでした。

介護

祖母が介護施設に入居

私が中学生だった頃に、祖母が入居していた老人ホームでの体験談になります。

介護という現状を知らなかった祖母好きの中学生にはきつい体験でした。しかし、大人になった今となれば、介護の現状を思い知らされ、介護してくれていた職員の方々には感謝の気持ちでいっぱいです。

親子とは、家族とは、色々考えさせられた日々でした。

祖母には子どもが6人いて、末っ子で次男坊である父の上に、4人の姉たちがいました。長男は既に他界していました。
当時父方の祖母は、叔母夫婦と同居していました。祖母は高齢のせいもありますが、病気をしてからというもの足腰が弱くなってしっていました。

入居特に叔母夫婦を悩ませたのは、夜のトイレ介助でした。フルタイムで共働きの叔母夫婦には日に日にその任務が負担になり、日中の仕事にも支障がでるようになってしまいました。当時叔母夫婦には大学に通う子どもがいたので、叔母が仕事を辞めるわけにもいきませんでした。だから、親戚で話し合った結果、子供たちがお金を出し合って、なるべく顔を見に行けるようにと、自宅から近い老人ホームへ入居することになりました。

入居した当初は壁をつたったり、手すりを使ったりしながら、ゆっくりとではありますが、ひとりでトイレにいくこともできていました。私も部活があったりもしましたが、週末にはなるべく祖母の顔を見に行くようにしました。

始まった認知症

そうこうして、しばらく経つと、祖母の言動がおかしいことに気付きました。私だけでなく、母も気付いていたようですが、父は実母のせいか認めませんでした。環境が変わると認知症を発症しやすくなると聞いたことがあったので、認めたくはなかったのですが、私も母も認知症を疑いました。

おかしいと気付いてからはあっという間でした。と同時に、すっかりオムツ生活に変わってしまっていて、私たちが帰る時にはいつも必ずトイレに連れて行っていたのですが、そのうちその習慣もすっかりなくなってしまいました。

お見舞い認知の症状はどんどん進み、私が最後に産まれた孫だったので、忘れていく順番は私が最初でした。最後に産まれた孫でしたので、他の親戚に嫉妬されるくらい一番可愛がってもらっていただけに物凄くショックでした。名前を間違えられるくらいなら、笑っていられましたが、鬼の形相で泥棒扱いされるようになってからというもの、祖母のいる老人ホームへ行くことは本当に気が重くなりました。

母の方針もあり、可愛がってもらった祖母でもあるので、部屋に入らなくても良いから、老人ホームにはついていっていました。部屋に入ると祖母を刺激してしまうので、廊下をうろついたり、談話室や休憩室で時間をつぶしたり、複雑な思いで過ごしたことを今でも覚えています。

祖母は母のこともすっかり分からなくなってはいたものの「どこのおばちゃんかわからないけど、いつもありがとうね、ありがとうね」と言ってくれると、それを励みに母は通っていたようです。

トイレに行けるのにオムツを穿かせる理由

ある日、ぽつりと、「おばあちゃんの手がいつも汚いのよ」と母が悲しそうに涙ぐんで言い出しました。「職員の方によるといつもオムツをいたずらしているとのことでした。神経質で綺麗好きだった祖母はオムツが嫌で、オムツを外そうとしているようでした。しっかりしていた祖母が職員の方たちに注意されることもショックでしたが、祖母の意志とは関係なくオムツを穿かせられたことが悲しくて、その日の帰りの車の中はなんだかいつも以上に暗い雰囲気だったことを覚えています。「仕方がないよ」という父はその一言が精一杯のようでした。

当時はトイレに行けるのに、どうしてオムツにしたのだろう?と怒りみたいな気持ちもありましたが、今となっては、職員の負担を軽くするため、事故を防ぐため、理解したり、納得できるようになりましたが、祖母が駄目になっていく様子をみていると、子どものころは施設にも職員にも不信感でいっぱいでした。

誰も知らない祖母の悲しい過去

祖母の様子は日に日に悪化し、ずっと胸にしまっていた過去の遠い記憶ばかりを言うようになりました。子どもがたくさんいて、みんなに優しく接してくれていた祖母が、何よりも気にかけていたのはこの世に誕生することのなかった、流産してしまった子どものことでした。父が生まれる大分前の話で、父も知らなかったようでとても驚いていました。

その頃の後悔や悲しみの話をする頃は、既に私の父の存在もわからなくなっていました。実母の記憶から消されてしまった父のその時の心境は測り知れません。

あの時の「仕方がないよ」という父の一言が全てを物語っているようでした。

一人でトイレにいくのに時間がかかるから「仕方がない」。

夜は職員が少ないからトイレ介助ができないから「仕方がない」。

危ないから「仕方がない。」

みんなに迷惑がかかるから「仕方がない」。

家族が看れないのだから「仕方がない」。

会いに来てくれるだけでも救われる

歩く習慣がなくなること、環境が変わることの恐ろしさをまざまざと見せつけられ、思い知らされました。お洒落な祖母で一緒に出かけることが楽しみだった、そんな面影はもうありませんでした。今後は弱っていく祖母を毎週見に行く、まさにそんな感覚でした。

祖母の実子である叔母たちはそんな祖母の姿にショックを受け、すっかり足が遠のいていってしまい、ほとんどお見舞いに行かなくなりました。祖母が壊れていくのを見届けていくのは私たち家族だけになりました。すっかり父の口癖が「仕方がないよ」になっていたのもこの頃でした。

介護士いつものように談話室で時間を潰していると、職員の方に話しかけられました。「おばあちゃんに逢えないのに、いつも来てくれてありがとう。私たちは家族が来てくれるだけでも救われる。」とその職員の方は言っていました。散々世話になって大きくしてもらっておいて、最後には1人で大きくなったような顔をして施設に押し付けて知らん顔の人ばっかりで、みんな気の毒で仕方がない、と嘆いていました。

職員の方たちに不信感を抱いていた時でもあったので、そんな思いで介護をしている人もいるのだと思ったら、非常に申し訳なくなってしまいました。

認知に続くあらゆる困難

その後、祖母の子宮がんが発覚し、汚物処理やリネン交換に一段と手がかかるようになりました。高齢でもあり、体力が持たないという理由で、治療はしないということを親族で決めたものの、日に日に痛みが強くなるようで、祖母が騒いだり、暴れたりするので、痛みどめの注射が日課となってしまっていました。

更に事態が深刻化したのは、日々打つ注射の跡が傷になり皮膚がんを併発したことでした。夏場だったせいもあり、化膿した患部が臭うようにもなってきました。また、ガーゼ交換も、化膿して腐ってきた皮膚や脂肪がはがれるので想像を絶する痛みを伴うため、祖母も処置を嫌がり、ますます職員の方々には手を煩わせるようになってしまっていました。

日々痛み止めの投与が増えました。いつ逝ってしまうかわからなかったので、平日でも顔を見られる時は祖母に逢いに行きました。既にその頃はいつ顔を見に行っても意識がもうろうとしているようになり、皮肉なことに私も部屋に入れるようになりました。

後悔のない介護をすると・・・

おばあんゃんそしてその時が来ました。突然でした。祖母が亡くなった時、毎週のように祖母を見舞っていた私たち家族には涙がありませんでした。一所懸命に看病してくれた職員の方々も「おばあちゃん、良く頑張ったね」という一言で涙もありませんでした。私たちができることは全てやったので後悔はないという印象でした。

あまり施設にお見舞いに来なかった叔母たちが一番泣いていて、子ども心に白けてしまいました。
談話室で時間を潰していた時に話しかけてくれた職員の方に、看ない人ほど大泣きするし、文句も言うのだよ、とそっと教えてくれました。全てを見通しているようでした。

「お嫁さんなのに、本当によく来てくれたよ」と最後に母が職員の方々に言われた時は、まるで祖母に感謝されているかのようで、私も一緒に泣いてしまいました。
今度は私が、近い将来介護する側になるのでしょうが、母のようにできるかは正直なところわかりません。

しかし、あの時職員の方にも言われた「一人でおおきくなったわけじゃない」という言葉を忘れないように、自分のできる限りは看ていきたいです。

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