特別養護老人ホームでのできごと

老人ホーム

みなさんは『介護』という言葉を聞いて、どのような事を想像しますか?
現代の日本では少子高齢化が進み、今後は介護を必要とする高齢者や介護施設の数が、飛躍的に増えてきます。
将来的には、自分の家族の誰かが介護を必要とするときが来るかもしれませんし、住居の近くに施設が建設されることもあるかもしれません。
今回は、今は遠いものだと考えている『介護』の世界について、少しでも皆さんに知ってほしいと思い、私が特別養護老人ホーム(以下 特養)で経験した最も大変だったことと最も嬉しかったことの2つについて、書かせていただきます。

ちなみに、特養とは重度の介護状態の方を対象にしており、介護保険のサービス付きの施設のことを言います。

まず私についてお話しておきます。私は25歳の男性で、介護士として従来型の特養で介護リーダーとして働いていました。社会福祉士の資格を持っていたので3年目からは相談員として働く予定でしたが、どうしても障がい福祉の分野に興味があったため仕事を辞め、現在は障がい者の入所施設で働いています。
 今回の出来事は、私が特養で働いていた2年間での出来事です。

私が経験した最も大変だったこと

過干渉すぎる親族
私がリーダーとなり2か月が経ったころ、Aさんという80代の女性が新しく入所されました。
Aさんは重度のアルツハイマー型の認知症で、あまり他の利用者さんとは関わろうとせず、いつもテレビを見て過ごしていました。他:レビー小体型認知症について

寂しそうな表情をすることが多かったですが、職員が話しかけると笑いながら冗談を言ったり、昔の話をしてくれたりと優しい人柄でした。
排泄に関しては、便意はあまり無く失敗してしまうことも多かったですが、立位と座位は保つことができるため、オムツではなく紙パンツにパットを当てて、日中夜間共に対応していました。
また、ご飯やおやつを食べたことをすぐに忘れるなど、短期記憶を保持することもできませんでしたが、娘であるBさんの事だけは家族の中でも唯一理解していました。
 Bさんは結婚しており子どもはおらず、毎日のように旦那さんと交代でAさんの面会に来ていました。
Bさんと旦那さんは、介護に対する価値観について意見がぶつかることが多く、2人で面会に来るとその度に他の利用者さんの前で言い争うことがあり、度々職員が間に入ることがありました。
 旦那さんの意見は職員と通ずることが多く、話も共有しやすかったですが、Bさんに関してはAさんの事を思うあまり、行き過ぎているのではないかと思う事も多くありました。
入所してすぐの頃は、Bさんは、「おかあさん(Aさん)の今日の様子を教えてください。」と職員に聞いてきていましたが、入所して1か月ほど経つと、1日の様子をA4の用紙に記入するように求めてくるようになりました。
私たちは日々の支援の中で日誌を毎日書いていますが、家族に状況を報告するための記録はできないという事を伝えると、「あなたたちはそんなこともしてくれないの!」と激怒されました。
この出来事を境に、Bさんは施設にあらゆるものを求めてくるようになりました。内容としては、栄養を付けるために市販のサプリメントや薬を飲ませてほしい、家で作ってきたご飯を食べさせてあげてほしい、トイレを持ち込みたいなどです。
施設としても対応できないことがほとんどで、要求があるたびに主任や所長と話し合いを行っていました。
しかし、自分の要求を受け入れてもらえないBさんは、次第に施設のクレームを言うようになりました。
帰り際に「ここはみんなだめね。お母さんがかわいそう。」と言ったり、職員に対して、「なんでこんなだめな介護しかできないの!」と怒鳴ることもありました。
またある日、昼食で鮭のホイル焼きが出たのですが、鮭の鱗が残っていました。Bさんはその鱗を持って、「この鱗がお母さんの喉に引っかかって詰まったらどうするの!」と物凄い形相で怒り、市の介護保険課に鱗を持って、クレームとして言いに行きました。
介護保険課は、この件を一応保留として施設に連絡をしてくれました。
この件を受けて、もう施設でサービスを提供することはできないという判断になり、Aさんは特養を出て在宅介護となりました。

 このような例はまれで、よっぽどのことがない限り特養から利用者さんが出ていくという事はないです。
またこのように大変な例も中にはありますが、特養では本当にやりがいを感じることができる場面もあります。

私が体験した最も嬉しかったこと

老人ホームの入居者
 私が特養で働き始めて3か月が経ったころでした。
そろそろ仕事にも慣れてきたころだろうという事で、初めて利用者さんを担当することになりました。
その方はCさんといって90代後半の男性で、認知症の症状も全くありませんでしたが、事故で下半身まひとなり、車いすでの生活を余儀なくされていました。
Cさんは身の回りのことはすべて自分で行い、誰よりも元気な方でした。
特に最も年齢が若いのに担当になった私に対しては、いつも「○○くん、今日もたのむよ~!」と、細くなった目をさらに細めて話しかけてくれました。
また私が働いていた特養では、月に1度利用者さんと一緒に行きたいところを計画して行く外出企画があり、私はCさんと地域のイベントや飲食店によく出かけていました。
そのような生活が1年ほど続いた頃、ある職員がいつものように車いすからベッドへCさんを移乗する際、バランスを崩してしまいました。
Cさんは勢いよくベッドへ座ってしまったため、腰椎を圧迫骨折してしまい、寝たきり状態になってしまいました。
高齢者は寝たきり状態になってしまうと、食事もうまく食べることができなくなってしまい、一気に機能が低下してしまうことがあり、Cさんもそのような状態になってしまいました。
しばらくは、施設での生活を続けることができていましたが、施設での生活に限界があると判断し、病院でしばらく入院することになりました。
入院している間、私は可能な限りお見舞いに行くようにしていましたが、病院でもほとんど食事には手を付けていなかったため、行くたびにCさんの元気がなくなっていっているのがわかりました。
そしてCさんが入院して2か月が経ったある日、私は夜勤明けで帰ろうとしたとき、病院から連絡が入り、Cさんが亡くなったと知らされました。
その時の感情は今でもはっきりと覚えています。
私は病院へは寄らず、自宅に戻って泣きながら眠りました。
 次の日、施設へ出勤すると他の職員が慌ただしくCさんの居室の片づけをしており、亡くなったことを改めて実感しました。
私もその中に加わり片づけをしていると、上司に呼ばれて、Cさんの葬儀に出席するように言われました。
Cさんの葬儀には式場に入りきらないくらい、大勢の方が来られており、Cさんがたくさんの人に愛されていたのだという事を実感しました。
葬儀も無事終わり数日経ったころ、私はCさんの契約解除のために上司と共に、Cさんの家へ向かいました。
到着すると、息子さん夫婦が迎えてくださり、仏壇へ案内してくださいました。
遺影のCさんは5年位前の姿で、私が知っている姿とは異なっていましたが、優しそうに笑っていました。
そのあと、リビングへと案内され、契約解除の手続きをしていた時の事でした。
息子さんが急に私に「あんたには本当に世話になった。ありがとう。」と言ってくださいました。
話を聞くとCさんは、いつも私の事を話しており、病院へ入院してからも毎日私の名前を大きな声で呼んでいたそうです。
その話を聞いた途端、私は涙が止まりませんでした。
私がやってきたことは間違ってはいなかった、Cさんと時間を共有することができて本当に良かったと、心から思うことができました。

介護の仕事は大変なことも多いし、嫌になってしまう事もあります。
しかし、人の人生は最期の時間をどのように過ごすことができるかによって、大きく変わると思います。
介護の仕事は、人生の最期の時間を共に見つめることができる、素晴らしい仕事であると私は考えています。

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